日本の城跡

平塚城

 
館跡(現平塚農高)
訪問日 R3年 5月
ポイント 城域は現在の県立平塚農高敷地から八雲神社境内、大久保公園に渡る一帯と思われる。明治中頃まで、付近一帯に空堀が残っていたという。また花水川の急流が城跡の西に回り、平塚農高・八雲神社の一帯が一段高い丘を削っていたと思われ、、その下は水田や泥田になっていた。このように平塚城は空堀と湿地で固めた典型的な館城であった。
印象 大久保公園、平塚農高、八雲神社周辺を歩いたが、今は空堀もなく遺構と思われるものは無かった。ただ花水川の水流が削ったであろう八雲神社の西から南側の急斜面土手に僅かな城跡の雰囲気が残る。
地図
略史  室町時代、大森頼春は駿河国御殿場より足柄を越えて相模に侵攻し小田原城に入城。、相模中原岡崎城の三浦氏と対峙した。大森頼明の時、上杉禅秀の乱で鎌倉公方方に味方して功を挙げ相模川西を領有した。そして氏頼の時に境目の城として三浦氏時代の居館を改修築城した。しかし長尾景春の乱で太田道灌の軍勢に包囲され落城、のちに廃城となった。(朝日新聞・神奈川の城参考)

平塚農高

大久保公園


八雲神社南側土塁





八雲神社境内



西側土塁

南側湿田に建てられた平塚商高

昔の南側湿田風景(神奈川の城より)